ミニマリストの先にあるもの。消費社会における本当のミニマリストとは?
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ミニマリストになりたいと、色々なものを手放してきました。今年の初めに比べると、確実にモノは減り、家の中は気持ちのよい空気が流れる時間が増えました。
だけど捨てきれないものもあることに気づきます。味噌や梅干しを漬けるためのたくさんの琺瑯容器、増えていくジャムや保存瓶。庭仕事で使う様々な道具。
正直これらを見る度に、心は揺れていました。どれも好きだけどそれなりの道具を必要とする行為。これらを削ぎ落とすべきなのか、どうなのか。
そんなとき、イケダハヤトさんのブログでこんな記事を見つけました。
▶︎ミニマリストやめました。まだウサギ小屋で消耗してるの? : まだ東京で消耗してるの?
田舎でのミニマルな暮らしとは
彼は記事の中でこう言っています。
都会的なミニマリストは、消費社会に依存しています。それは大きな視野で見れば、ちっともミニマル(最小限)ではない。
田舎なら、消費社会からの依存を脱却して、より「ミニマル」で暮らすことができます。
そのためには、ある程度の生産設備が必要なのです。草刈機ないと作物も育てられませんからねぇ。
すごく男性的な視点だなーと思うのですが、消費社会に依存しない暮らしが本当のミニマルな暮らしだと言っているわけです。
地方で暮らすミニマリストってどこか限界を感じていたところ。梅干し作りも、味噌作りも楽しいし、庭作りもしてる。それでいいんだーと思えた記事。 https://t.co/DrUm3fHAMT
— ゆくり (@yukuriyuko) 2016年6月13日
ミニマリストの先は、季節に寄り添う暮らし
先日の梅しごとを通して、わたしは季節を感じる暮らしを大事にしたいと思っていたところでした。
春はヨモギを始めとした野草を楽しみ、梅雨は梅仕事、夏になればぬか漬け、バジルペーストを作る。秋は干柿、干し芋、冬はゆべしに、味噌。そしてそれぞれの季節の果物でジャムづくり。(食べ物ばっかり笑)
使う道具も多く、面倒にみえる保存食づくりも、わたしにとっては生活の一部で、欠かすことのできないもの。自分の中の譲れない部分はここなのだと、今回改めて気づいたのでした。
ミニマリストであることの意味
ミニマリストをモノが少ないという前提で捉えたら、わたしはミニマリストではないのかもしれません。だけど、余計なものを削ぎ落とし、自分に残ったものが季節に寄り添う暮らしをしたい、ということであれば、それもまたミニマリストの結果だといえるような気がします。
また、自分が好きなことをするために、他のことは力を入れない、諦める、簡素化する。わたしにとってはスキンケアに時間やお金をかけないこと、私服を制服化していることはそういうことなのかとも思います。
▶︎【書評】ミニマリストの先にあるもの。「ミニマリストという生き方」を読んで思ったこと
おわりに
イケダハヤトさんほど、田舎暮らしでないわたしですが、鶏を飼ってみたい、ガスオーブンが欲しいなど、まだまだ生産していく生活への欲があります。しかもその欲は、たくさんのモノを伴っています。ミニマリストの先にある生活とはどんなものなのか、自分でもまだ想像できませんが、今の気持ちを否定せず、進んでいこうと思います。70min
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