子どもの「なんで?」への答え方を変えてみて、見えてきたもの。
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先日、次女の「なんで?なんで?」攻撃が始まったという記事を書きました。その後、この記事に、『「なんでだと思う?」と返していました』コメントをいただきました。
確かに、わたしは答えることばかりに夢中。そんな視点を忘れていたなと思い、実際に返事の仕方を変えてみました。
その結果、子どもにも変化があったり、わたしの考え方にも変化が。今日はそこから気づいたことについて書きたいと思います。
「なんでだろうね?」と返してみると
「なんで?」と聞かれて、「◯◯だからね」と答えていたわたし。答え方を変えてみたところ、
次女「◯◯ちゃんが泣いてる。なんで?」
わたし「なんでだろうねぇ」
次女「雨がね、降ってね、服がね、ぬれちゃったからだよ。」
わたし「そうなんだ〜。じゃあ、お家に帰って着替えたらいいかもね。」
こんな風に「なんで?」について、「なんでかなあ」「なんでだろうね」と返してみると、次女なりに一生懸命考えて、答えが返ってきたのです。どうでもいいことは無言でスルー。
たった一言変えただけで、親子の会話がなんだかスムーズに。わたしの今までのイライラも嘘のよう。ちょっと不思議な気分でした。
与えすぎていた母
こんなやりとりを繰り返して数日。次女はもしかして、答えが欲しかったのではなく、わたしとの会話を楽しみたかっただけなのかも、ということに気がつきました。
「なんで?」に対して、「◯◯だから」と答えれば、そこで会話は終了。つまらない次女はまた「なんで?」を繰り返す。だけど、「なんでだろうね〜」と返してみると、自分なりに考えて答えを出しながら、また楽しく会話が続いていく。
次女が一生懸命話す姿を見ながら、彼女は答えが欲しかったのではない。答えを与えられるよりも、自分で考えて、自分の言葉で話すことを楽しみたかったということに、やっと気がついたのです。
子どもに考えさせるということ
わたしは子どもに、自分で考えて、生きる力をつけていって欲しいと思っています。
そう思っていながらも、日常では、気がつかない間に与えすぎている。今回の件でそんな自分のくせに気づきました。
子どもの疑問にすぐに答えてしまう。これは目の前の問題を解決しているように見えても、長い目で見たときには、子どもの学ぶ機会を奪っているのかもしれない。
聞けば答えてもらえるという環境は、自分の頭で考える、自分で見つけるという意欲を少しずつなくしてしまうのかもしれないなと、大げさですが少し怖くなりました。
まとめ
自分の知っていることは、ついつい、なんでもかんでも教えたくなってしまいます。だけど、教えること=いいことではなくて、もしかして一緒に疑問を楽しむこと、発見するまでの過程を楽しむことが、側にいる親としての役割であり、楽しみなのかもしれない。今回の件でそんなことを感じました。
まだまだ口出しをいっぱいしてしまう母ですが、子どもを見守ること、もっと意識してみたいなと思います。 45min
子どもについてはこんな記事も書いています。
▶︎子どもの声かけもミニマルに。やる気を出させる声のかけ方。
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